Share

第41話 叫び声の行方

Author: marimo
last update publish date: 2026-07-02 20:49:07

スタジオの奥で、シャッター音が止んだ。

 張り詰めていた空気が、ふっと緩む。

「今日は、ここまででいい」

 カメラマンの一言で、スタッフが静かに動き出す。

 相沢玲奈は何も言わず、肩にかけていたタオルを取り、鏡の前に立った。

 モニターに映る、自分の姿。

 ライトを浴び、完璧に作り込まれているはずなのに、どこか鈍く見えた。

「……正直さ」

 背後から、カメラマンの声が落ちる。

「彼氏と、やりすぎなんじゃないか?」

 玲奈の指が、わずかに止まった。

「体のライン、前と違う。崩れてきてるぞ」

 責める調子ではなかった。

 仕事としての、冷静な指摘。

 それが、かえって胸を抉る。

(……俊哉のせいだ)

 そう思った瞬間、腹の奥が熱くなる。

「……気をつけます」

 絞り出した声は、自分でも分かるほど硬かった。

 スタジオを出ると、外の空気がやけに重い。

 携帯を取り出すまでもなく、誰からの連絡もないことは分かっていた。

「……最悪」

 吐き捨てるように呟いた、そのとき。

「玲奈!」

 聞き慣れた声。

 だが、今日は異様に荒れている。

 振り返ると、黒崎俊哉がスタジオの入口に立っていた。

 息
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―   第161話 こぼれた想い

     暴漢に襲われかけたあの日から数日。 久遠ひかるは、都心から少し離れた実家に身を寄せていた。 広大な敷地の奥に建つ邸宅は、以前にも増して静寂に包まれている。 外部の人間が容易に近づける場所ではない。 それでも警備は明らかに強化されていた。 庭を巡回する警備員。 出入りを確認する車。 以前なら気にも留めなかった小さな物音さえ、今は家全体が敏感に反応しているようだった。 もっとも―― 当の本人は、その物々しさなど気にも留めていない様子だった。 リビングの大きな窓から柔らかな午後の光が差し込んでいる。 その光の中で、ソファに寝転がったひかるは、クッションを抱えながら笑っていた。「いやぁ……まさかこんな長期休暇になるとは思わなかった」 まるで、撮影の合間に突然できた休みを楽しんでいるかのような口調だった。 その声に、向かいに座る藤崎優は眉を寄せる。「長期休暇で済ませるな。お前は襲われかけたんだぞ」「でも未遂だし。ほら、見て」 ひかるは両腕を広げて見せた。「どこも怪我してないわ。超元気よ」 確かに顔色はいい。 むしろ、ドラマの撮影で多忙だった頃よりも血色が良く見えるほどだ。 笑っている。 いつものひかるだ。 だからこそ―― 優の胸の奥にある重苦しさは、まったく消えなかった。――もし間に合わなかったら。 あの日、もし黒い車が現れるのが少し遅れていたら。――もし本当に傷つけられていたら。 もし、自分がもう少し早く気づけていたら。 そんな「もし」が、何度も頭の中を巡っている。 守ると決めた。 絶対に守ると。 なのに、現実には彼女を一人にしてしまった。 優は無意識に拳を握った。 目の前にいるひかるが笑っている。 それだけで十分なはずなのに。 生きている、無事でいる、それだけでいい。 そう思う一方で、心の奥から別の感情が膨らんでいく。 失いたくない。 この笑顔を。 この声を。 この温もりを。 そして―― この女を。 ひかるはそんな優の視線に気づくと、少し困ったように笑った。「優さん、そんなに心配しないで」 その言い方があまりにも穏やかで。 あまりにも無防備で。 まるで、優なら自分を守ってくれると信じ切っているようだった。 その瞬間。 優の中で、何かが音を立てて切れた。 もう、抑えられ

  • 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―   第160話 雲の上の存在

     パーティー会場を後にしてもなお、黒川彰人の耳には拍手の残響がこびりついていた。 車のドアが閉まった瞬間、外の喧騒が遮断される。 静寂。 だが、その静けさの中で、黒川の頭の中だけが異様なほど騒がしかった。 ――― 一条蘭。 ただその名を聞くだけで、胸の奥に得体の知れない重さが沈む。 あの女が、なぜ今になって戻ってきた。 なぜ、あの場所にいた。 そして――なぜ、あの目で自分を見た。 黒塗りの車に乗り込むと同時に、黒川はネクタイをわずかに緩めた。 普段なら、どれほど不快なことがあっても表情を崩さない。 だが今夜は違った。 自分でも気づかないほど、呼吸が浅くなっている。「篠原」 低く呼ぶ。 助手席に座る篠原賢一が、すぐに振り返った。「はい」「調べろ」 それだけで意味は通じる。 一条蘭。 久遠ホールディングス。 「今日、あの女を財団の特別顧問に押し込んだ人間。 その背後関係を、すべて洗え」 篠原は短く頷いたが、その横顔にも珍しく緊張が走っていた。 車が滑るように夜の都心を走り出す。 窓の外では、無数の街灯が流れていく。 黒川は腕を組み、黙っていた。 大丈夫だ。 そう自分に言い聞かせる。 これまで何度も危機はあった。 そのたびに金を動かし、人を動かし、情報を消し、相手が立ち上がる前に潰してきた。 自分が追い詰められることなどない。 そう思っていた。 しばらくして、篠原が口を開いた。「黒川様……一点、気になる情報が」「言え」「久遠ひかるですが」 その名前を聞いた瞬間、黒川の眉がわずかに動いた。「久遠ホールディングス会長――久遠隆之の実子の可能性が高いかと」 沈黙。 ほんの数秒だった。 だが黒川には、その時間が異様に長く感じられた。「……なんだと?」 低い声。 しかし、その奥には明らかな動揺があった。 久遠隆之。 その名前が頭の中に入った瞬間、黒川の思考が一瞬、完全に止まった。――まずい。 最初に浮かんだのは、それだった。――これは、まずい。 背筋に冷たいものが走る。「裏は?」「ほぼ取れています。戸籍までは確認できませんでしたが、周辺情報は一致しています。そして――」 篠原は一拍置いた。「母親は、一条蘭です」 その言葉が落ちた瞬間。 黒川の中で、何かが音を立てて崩れた

  • 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―   第159話 女王の帰還

     都内・帝国ホテルの大宴会場。 政財界、芸能界、そして旧華族の流れを汲む名家までが顔を揃える――「東都文化振興財団 設立五十周年記念パーティー」。 格式を重んじる者たちが集う、華やかで静かな社交の場だった。 誰もが上品な笑みを浮かべ、互いの立場を測りながら言葉を交わしている。 だが、その空気が――入口のざわめきによって変わった。「……まさか」「本当に来たのか!?」 最初は、ほんの数人の囁きだった。 それが波紋のように広がっていく。 人々が一斉に入口へ視線を向ける。 ゆっくりと扉が開いた。 先に姿を現したのは、漆黒のドレス。 無駄を削ぎ落としたシンプルなシルエット。 派手な装飾など一切ない。 それなのに、その姿には圧倒的な威厳があった。 そして、その一歩後ろ。 ―― 一条蘭。 五十代後半とは思えないほど背筋が伸びている。 年齢を重ねたからこそ生まれる、深みのある美しさ。 若さを誇示するような美ではない。 時間に磨かれた気品。 自分が何者なのかを知っている女性だけが纏える、自信。 そして何より――女優として生きてきた者だけが持つ、圧倒的な存在感。 顔には、長い年月を刻んだ痕跡がわずかにある。 それすらも彼女の美しさを損なってはいなかった。 むしろ、その年月すべてが、一条蘭という女性の歴史そのものに見えた。 彼女は誰のエスコートも受けていない。 ただ、一人で歩いている。 それなのに。 人々は自然と左右に分かれていく。 まるで道を空けることが当然であるかのように。 ヒールの音が、静寂を刻む。 コツ。 コツ。 コツ――。 その音だけで、会場に緊張が走った。 かつて業界の頂点に立ち、「舞台に神を降ろす女」と呼ばれた伝説。 引退して二十年以上。 公の場に姿を現すことは、ほとんどなかった。 だからこそ、その存在は現実感を失っていた。 伝説は、記憶の中にいるものだ。 誰もがそう思っていた。 それなのに――。 今、彼女はここにいる。 生きた姿で。 しかも、かつての栄光を懐かしむような雰囲気など微塵もない。 女優を引退した女性ではない。 今もなお、女優としての誇りを胸に立つ女性。 王が現れたのではない。 女王が帰還したようだった。 その時―――。「お久しぶりです、一条先生」 声をかけ

  • 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―   第158話 内通者

     FJプロダクション本社、最上階。 社長室には、重い沈黙が落ちていた。 窓の外では昼下がりの東京が平然と動いている。だが、この部屋の空気だけが明らかに違った。 藤崎優はデスクの上に並べられた資料を見下ろしていた。 その中心にあるのは、昨夜の襲撃未遂に関する詳細な報告書。「……警護が、誰もいなかった?」 低い声が、室内に落ちる。 向かいに立つ東堂が頷いた。「本来、昨日の19時から21時まではA班が久遠ひかるに同行する予定でした。ですが——」 ページをめくる音。「17時の時点で、スケジュール変更の連絡が警備システムに入力されています」 優の目が細くなる。「変更内容は?」「撮影場所が急遽変更になった、と。現場は屋内で、警備は不要との指示でした」「誰の判断だ」「記録上は、秘書課経由。承認コードは……橘のIDです」 一瞬、空気が止まった。 優は何も言わない。 ただ、ゆっくりと椅子に深く腰を下ろした。「だが」東堂が続ける。「その撮影自体、存在していません」 静かな衝撃が、室内に広がる。「昨日の19時。久遠ひかるは単独で、撮影上がりで家に帰ろうとしていた。その情報は外部には出していない。社内でも、ごく限られた人間しか知らないはずです」 優は目を閉じる。 ひかるが襲われた時間。 警護はゼロ。 しかも、その直前に“屋内で警備不要”という誤情報が正式ルートで流されている。 偶然ではない。「意図的だな」 東堂が静かに答える。「はい。誰かが、ひかるを“丸裸”の状態にした」 優の胸の奥で、冷たい怒りが形を取る。 さらに東堂は、もう一枚の資料を差し出した。「もう一つ。昨日、社長に“久遠ひかるが病院に搬送された”と連絡が入った件ですが」「発信元は?」「警備会社の代表番号を偽装していました。内部データに一度アクセスしないと不可能な偽装です」 優の視線が鋭くなる。「つまり」「スケジュールを知っている者。警備配置を変更できる者。そして、警備会社の通信システムにアクセスできる者。そして……久遠ひかるが襲われる、数十分前に、社長に連絡が入っています」優は愕然とした。自分が連絡を聞き、病院へ走っていたとき、ひかるが襲われていた。 優の顔色が変わったのを見た東堂は、はっきりと言った。「内部にいます」 重い沈黙。 優はゆっく

  • 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―   第157話 血の記憶

     都内・高級レジデンス最上階。 夜の闇に溶け込むような静寂の中、雪城沙羅は一人、ワイングラスを傾けていた。 窓の外には宝石を散りばめたような夜景が広がっている。 だが、彼女の視線はそこにはない。 テーブルに置かれたタブレット。 そこに表示されているのは――ある報告書だった。 沙羅はゆっくりとページをスクロールした。 やがて、その唇がわずかに弧を描く。「……そう」 小さく呟く。「気づいたのね、優」 画面に記されているのは、たった一文。 『FJにて、藤崎優が“一条蘭の過去映像”を発見』 グラスの中で赤い液体が揺れる。 まるで血のように。「ふふ……」 低い笑いが、静かな部屋に落ちた。「やっぱり、気づくわよね」 久遠ひかるを初めて見たとき。 沙羅の胸の奥を走った、あの不快な感覚。 理由など、考えるまでもなかった。 立ち姿。 呼吸。 視線。 舞台を支配する、あの沈黙。 感情を叫ばないのに、観る者の心を奪っていく。 あまりにも似ていた。 まるで、遠い昔に葬り去ったはずの記憶が、突然目の前に立ち上がったようだった。 ―― 一条蘭。 沙羅がまだ駆け出しだった頃。 芸能界には、誰もが認める女王がいた。 自分より先に称賛され、自分より先に注目され、自分より先に頂点に立っていた女。 何をしても蘭には敵わない。 そう感じた瞬間が、何度もあった。 あの女がいる限り、自分は永遠に二番手なのではないか。 その恐怖が、いつしか憎しみに変わった。 だから――消した。 そして、ようやく自分の前から蘭の姿は消えた。 それなのに。 今度は、その女を思わせる女優が現れた。「せっかく息の根を止めてやったのに。とても似ているのよ、あの女に……気に入らない」 その声には、温度がなかった。 そこにあるのは憎悪だけではない。 もっと歪んだものだった。 蘭に勝ちたかった。 蘭を超えたかった。 そして今、ひかるにも同じ感情を抱いている。 似ている。 だからこそ、許せない。 沙羅は自分でも気づかないほど深い場所で、ひかるを一条蘭と重ねていた。 ―――似ている。 沙羅がひかるをひくむには、ただ、それだけで十分だった。 コンコン。 背後でドアがノックされる。「入って」 現れたのは、黒川彰人だった。 相変わらず隙のな

  • 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―   第156話 伝説の再来

     深夜のオフィスは静まり返っていた。 藤崎優は一人、デスクの前に座っていたが、目の前の書類にはほとんど視線を落としていなかった。 考えているのは、別のことだ。 久遠ひかる誘拐未遂。 スポンサー撤退。 黒川彰人の存在。 そして――雪城沙羅。 ひかるの母・美月から聞かされた、一条蘭という名前。 過去の襲撃事件。 そこに絡む沙羅の影。 そして今、ひかるの身に起きていること。 点だったものが、ゆっくりと線になり始めている。 だが、まだ何かが足りない。 決定的な“核”。 優は椅子の背にもたれ、目を閉じた。 ひかるを襲った連中。 スポンサーを次々と動かした黒川。 沙羅がひかるを敵視する理由。 そして、美月が語った過去。 すべてが繋がっているように思える。 それでも、確信するには何かが足りなかった。 そのときだった。 コンコン、と控えめなノック。「社長、まだお帰りではなかったのですね」 東堂だった。「……どうした」「資料を整理していたところ、気になるものが出てきまして」 東堂が差し出したのは、一枚の古いDVDだった。 ラベルにはこう書かれている。 『舞台 緋桜 —主演:一条蘭—』 優の眉がわずかに動く。「一条蘭……」 その名前は、知っている。 いや――芸能に関わる者なら、誰でも知っている。 伝説の女優。 突然姿を消した女。 そして。 久遠ひかるの母。「なぜこれが?」「倉庫に保管されていたものです。おそらく資料用かと」 優はしばらく無言で見つめたあと、静かに言った。「再生してくれ」 会議室の照明が落とされる。 スクリーンに、古い映像特有の粒子が浮かび上がる。 やがて――舞台が現れた。 暗転。 静寂。 次の瞬間。 スポットライトの中に、一人の女が立っていた。 優の呼吸が、止まる。 美しい。 そんな単純な言葉では足りない。 そこに立っているだけで、空気が変わる。 観客の視線が吸い寄せられていくのが、映像越しでもわかる。 セリフはまだない。 それなのに――支配される。 優は無意識に身を乗り出していた。 この女は、何なのだ。 何もしていない。 ただ立っているだけ。 なのに、目が離せない。「……なんだ、この存在感は」 優が思わず呟く。 東堂も小さく頷いた。「記録で

  • 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―   第7話 見せつける夜

    夜のリビングには、古い映画の音だけが流れていた。白黒に近い色調の、恋人同士が静かに抱き合うシーン。窓の外では、雨がまだ降っている。時折、車の走る音が濡れた道路を滑っていった。部屋の照明は落とされ、テレビの光だけが、ぼんやりと室内を照らしている。そのソファには、二人がいた。黒崎俊哉と、相沢玲奈。玲奈は俊哉の膝の上に横向きに座り、腕を首に回しながら、指先で彼のシャツの胸元をなぞっている。まるで、自分だけが愛されていると確認するように。俊哉の手は、彼女の背中から腰へ、ためらいもなく滑っていた。二人の距離は近すぎて、見てはいけないものを見ている気分になる。「この映画、好きな

  • 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―   第3話 出会いの記憶

    黴臭い布団に横になり、天井の染みを見つめていると、意識とは裏腹に、記憶だけが勝手に遡っていった。――どうして、あの人と出会ってしまったのだろう。あの頃の私は、できるだけ人目につかないように生きていた。派手な服も、化粧もせず、ただ「静かに」「何も起こさず」一日を終えることだけを考えていた。生活のために始めたのが、清掃のアルバイトだった。古くて、薄暗い雑居ビル。廊下の電灯はところどころ切れ、昼間でも影が溜まるような場所だった。そのビルの一角に、《Kurosaki Creative Works》という、出来たばかりの広告制作会社が入っていた。出会いは、共同トイレだった。男

  • 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―   第2話 物置部屋の夜

    次の瞬間、頬に衝撃が走った。「口答えするな!!」視界が揺れ、体が傾く。床へ倒れ込んだ拍子に、テーブルの脚へ肩をぶつけた。鈍い痛みが走る。けれど俊哉は、そんなこと気にも留めなかった。「お前さ、最近調子乗ってるよな?」「誰のおかげで生活できてると思ってんだよ」怒鳴り声が、耳の奥で反響する。昔は、こんな人じゃなかった。少なくとも、ひかるはそう信じていた。仕事で失敗して落ち込んでいた夜、「お前がいてくれるだけでいい」そう言ってくれた男だった。雨の日、傘を差しながら、「風邪引くなよ」と肩を抱いてくれた人だった。でも。その優しさは、いつの間にか消えていた。倒れかけた

  • 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―   第1話 空気みたいな女

    ――彼に殴られたのは、これが初めてではなかった。けれど、「愛している女がいる」と、はっきり言葉にされたのは、今日が初めてだった。頬の奥が熱い。殴られた衝撃で耳鳴りがしているのに、不思議と痛みは遠かった。ただ、胸の奥だけが、じわじわと冷えていく。床に座り込んだ私を、婚約者であるはずの、黒崎俊哉(くろきしゅんや)は見下ろしていた。そこにあるのは怒りでも、罪悪感でもない。ただ、鬱陶しそうな視線。まるで、自分の生活を邪魔する“何か”を見るような目だった。「なあ、いつまでそんな顔してるつもりだ?」低く、冷たい声。まるで、床に落ちたゴミに話しかけるようだった。ひかるは答えられな

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status